ムシ屋の移民論

 第一部

日本人ブラジル移民の考察

  アマゾンのある種のモルフォチョウの幼虫は卵から孵ってしばらくの間、数百匹の群をなして生活している。しかし、食草を食い尽くすと、餌を求めていくつかの群に別 れて移動する。その多くが途中で死亡するが、理論的には数百の幼虫から数匹のモルフォチョウが飛び立てば良い。

 移民とは、生物学的に見ると、生きるために「職と希望」を求めて他の場所に移り住む行為で、餌を求めて分布を広げる多くの生物種と何ら変わることがない行為である。 そして移民には内国移民と外国移民がある。

  通常、内国移民と云われる国内移住は余り問題にならないが、田舎から都市への移動も移民である。今世紀末には世界人類の都市集中化が顕著になり、新たな問題が発生する可能性が指摘されている。すでに日本に於いては田舎の過疎が進み、限界集落現象として現れている。

 #限界集落とは現在、老人しか居住しておらず、近い将来消滅する可能性がある集落を云う。

 

 ここでは内国移民にはあまり触れず外国移民、特にブラジル移民を考察して見たい。 生物学的にはヒトが国外を目指す場合、まず近隣周辺部に分布を広げるのが常道であるが、一気に最も遠くに移動した南米移民は特異な例と云える。これは肉体的特徴より、文化文明により地域にシフトしてきたヒトの大きな特徴といえる。

 

<戦前の移住>

  戦前のブラジル移民の場合、移民の多くが農業従事者であった。これは受け入れる側のブラジルにおいて農業労働者としてのニーズがあったのであるが、戦前の移民の最盛期は第一次世界大戦後の不況による著しい農村の疲弊という日本側の事情もあった。

 そして、ブラジルに到着して見れば、奴隷解放から時間が経っておらず、コーヒー農場の作業は過酷で奴隷に近い生活が待っていた。そして食生活の違いに加えて、社会情勢の度重なる変化等(コーヒーの国際相場の暴落による収入の大幅な減少。収入は出来高制)に3年間、同じ農場で頑張る人々はほとんどなく、その多くはいわゆる脱耕した。それ故、「単なる三年の出稼ぎ」で故郷に錦を飾るはずが、帰国の旅費はもちろん、その日の糧にも困り多くの移住者が路頭に迷った。

  当時のブラジルのコーヒー園における社会情勢、雇用情勢は奴隷制度の気風から抜け出しておらず、非常に厳しいものであった。 当時の状況を考えれば無理もないが、今日的に云えば、情報不足による「外国移民とはハイリスク、ハイリターンの行為である。」という認識が欠如していたと云える。

 その後、大日本帝国の大陸進出政策に伴い、多くの日本人がアジアに移住するように なった。

戦前の南北アメリカ移民とアジア移民の違い

*基本的に国家の力を背景に持たない

 南北アメリカ(カナダ、USA、中米、カリブ、コロンビア、ベネズエラ、  ブラジル、ペルー、ボリビア、パラグアイ、アルゼンチン、チリー)

*国策としての国家の力(軍隊)を背景に持っていた。

 アジア(朝鮮、中国=満州、フィリピン、タイ、南洋諸島)

 満州―――長野、東北地方の出身者が多い。

 南洋諸島―――福島、九州地方の出身者が多い。

  国家の保護のあったアジアへの移住に対して、国家の保護のない南米移住を、自ら「棄民」と名乗るのは間違いである。今日的に云えば、情報不足による自己認識の甘さに過ぎない。特に戦前の国家の力を背景としたアジア移民との比較において、棄民を自称するのはいかがなものか?

 過剰なプロパガンダがあったにしろ強制された訳ではない。 そういう意味では、戦争中に軍によって強制連行された在日韓国、朝鮮人と異なる。 移民決定の理由を語る時、一般論が多く、個人的事情を隠しているケースが多い。 本質的には貧しく、食えないと云う当時の社会背景があるが、それだけで地球の反対の未知の国ブラジルに飛び出す覚悟は成立しない。プラス個人事情(特に精神的理由)がウラにある(徴兵忌避、キリスト教信仰、負債からの逃亡、家族関係のもつれ、恋愛、失恋等々)。

 これは戦後移住者にもいえるがーーー。 今風に云えばモチベーションの問題である。(但し、この定義は成人移住者に限り、未成年構成家族は除く。)

適応放散は離島のようなニッチェ(生物学的地位 ―食物連鎖のポジション)の隙間が大きい方が起こり易い。

日本人移民はブラジル社会でどのようなニッチェを占め、適応放散をしたのか?

 さて、脱耕し辛酸を舐めた戦前の日本人移民はその後、何とかして自前にしろ、借地にしろ、独立農として生活を歩み始めるケースが多かった。 農業者としての「職と希望」は職=農地、希望=広い農場である。

 いずれもそれを手にいれるニッチェ(可能性)が、ブラジルには十分あったが、当時の日本人移民は日本において小作農が多かったため、あまり意識しておらずというか、それに気がつかず、相変わらず、一山当てて、故郷に錦を飾ることばかりを考えていた。

  当時、ヨーロッパ移民の多くはまず自給自作体制を整え、その上でリスク分散のため、耕地を4等分して4種類の作物を作ったが、ブラジルにて独立農として働き始めた日本人移民の多くは一日も早く祖国へ錦を飾るため、自分の農地にて国際商品たる農作物を単一で作り始め、その多くは相場の値下がり等で多大なリスクを負った。

  それ故、ヨーロッパ移民はゆっくりだが足が地についており、日本人移民はせっかちで、一旗組が多いと解釈されているが、その背景にはコメを作る稲作水田農家が多かった 日本人移民と畑作のヨーロッパ移民のカルチャーの違いが有ったことが欠落している。

  日本人移民でも山間部で焼き畑文化を持っていた移民は、ブラジル農業のシフトに成功したが、元稲作水田農家はなかなかシフト出来ず、営農がうまく行かずに街に出て商業等に従事して生活した人が多い。

 また、農業にしても。野菜作り、養鶏のようなブラジル人が不得意とし、小資本で出来る農業に従事したケースが多い。 隣国アルゼンチンのブエノスアイレスでは、洗濯屋、花卉栽培等に従事した移民が多かった。 その要因は畑地における輪作農業の視点が欠けていたと同時にそのノウハウを持たなかったためである。

#1000年以上、同じ場所で同じ作物を作り続けることが出来たのは日本に於ける水田稲作以外に例がない。

 鎖国体制の崩壊した明治初期に、早くもハワイ、北アメリカへ和歌山、沖縄、山陰の 日本海側の県の人々が雄飛していた。これらの人々は江戸時代すでに城下町に季節的に「出稼ぎ」をしていて異境の地における生活力をしっかり持っていたと思われる。

  森林と草原と河 昭和初期のサンパウロ州は一歩郊外に出ると鬱蒼たる森林であった。 移住環境の良いアルゼンチンにおいてもパンパで活躍する日本人は非常に少ない。パ ンパの主用産業が牧畜である事を割り引いても、ブエノスアイレス近郷で、コロニアを造り、いがみ合いながら、集団生活をしている。

 基本的には狭い土地で生れ育った日本人はどうも広いところで一人生活することが苦手のようだ。酒を飲むにしても広いホールの真ん中より、隅っこに座り、基本的には狭い居酒屋風を好む。 広い部屋を横切ることを嫌い、隅を走るネズミやゴキブリの習性に似ていると云えば言い過ぎだろうか?

  唯一の例外がアマゾン河でジュート栽培に従事した高拓生であった。「高拓生」の私的解釈は帰らなかったフーテンの寅さんである。 「俺がいたんじゃお嫁に行けぬ、わかっちゃいるんだ妹よ」の歌詞の文句のように、故郷を捨ててアマゾンくんだりまで来てしまったのである。

 映画では瀬戸内海や北海道のようなところにしばらく住んで音信不通 。妹やオジ夫婦を心配させた上、トラブルに巻き込むが、アマゾンまで来てしまったので帰れなかった寅さんという解釈。 ただそこには棄民と云う発想も悲壮感も後悔も存在しなかった。日々是好日。

  森にも草原にも住めなかった日本人移民も大河のほとりには定着出来た。 美空ひばりの「川の流れのように」が国民的歌謡曲になるゆえんである。

 

<戦後移住>

 第二次世界大戦の敗北によるアジア各地からの移住者の引き揚げ、軍隊の解体、国土の荒廃。戦後数年は食うや食わずで大変であった。やがて、少し落ち着くと農村では食えなくなり、加えて産業構造の変化、すなわち、石炭から石油にエネルギーが代わり、多くの炭坑で失業者が続出した。

 だが都市部はまだ戦災から立ち直っておらず、行き場を失った人々は「職と希望」を海外移住ブラジルに求めた。 戦後移民は炭坑離職者、狭い農地に見切りをつけた人々に混じり、比較的多くの元アジア各地の引揚者が含まれていた。

  職を求めて農村から都市への人々の移動は現在でも発展途上国に共通 した問題で、戦後の日本にも起きたが、戦後のブラジル移住者は国内の都市への移動に「職と希望」が見出せない昭和20年代後半に起きた現象であり、30年代前半まで続いた。 すなわち、当時の都市に受け入れる体制が出来ていなかったのである。

  国家権力を背景にアジアに進出したアジアへの移民は敗戦と共にその基盤を失い総引き揚げになったが、国家の後ろ盾なく棄民であったはずのブラジルに於いては戦前移民が、後続部隊としての戦後移民を暖かく迎えたのであった。

  加えて、第二次大戦後のヨーロッパの復興物資、特に食料の輸出でブラジル、アルゼンチンは当時、好景気であった。

 その後、日本では都市部が復興し輸出が盛んになると農村から都市部への集団移動が始まり、春には中学、高校卒業生の集団就職列車さえ毎年運行された。これは内国移民の典型である。 高度成長期とは田植えの発想でこれら集団就職組を中心にした人海作戦による人の手による物作りであった。

  現在、日本では格差が問題にされているが、戦前の方がはるかに格差があった。それが戦争によって破壊され、戦後復興期およびその後の成長期に人海作戦をとったため、多くの人がそのおこぼれに預かったに過ぎない。

  その後のさらなる高度成長で、日本経済は1980年後半、極端な人手不足に落ち入った。 かって都会を目指し辛苦をなめた人々はより上の生活を求めて、自らの子弟に高学歴を施したため、その子弟は自らの職を選べるようになり1980年後半にはいわゆる3Kと云われる職業は敬遠されるようになった。

 その穴を埋めたのが、「出稼ぎ」と云われる日系移民の子弟である。 今日の在日日系ブラジル人30万人の「出稼ぎ」から日本への定住は戦前の移民と逆の現象であるが、基本的には豊かさへのあこがれで基(もと)は同じである。 そして社会基盤を支える肉体労働であることも全く同じである。

 かってのブラジル農業は多くの人手を要したが、近年は機械化により余り多くの人手を要しない。特に輸出産品のコーヒー、大豆等にその傾向が顕著である。また、経済構造の変化により、小農経営は立ち行かなくなりつつあるゆえ、農業従事者は職を求めて、都市に移動せざるをえない。

 現在の「出稼ぎ」の始まりは、日系人の場合はバブル期の日本経済の求めに応じて祖国日本を目指したにすぎない。その背景には戦前のブラジル移民と同じ「一山当てる」という「一攫千金」の考えが流れている。

  しかし、バブル経済の崩壊。為替の変化等によりその旨味は薄れつつあり、日本への定住へ拍車がかかっているのが現状である。 結果としてニッチェを求めて、祖国に戻る結果になった当時の日本社会から淘汰されたはずの移民の子孫が、生物学的にはマイアーの「異所説」によれば、現在の飽食と惰眠をむさぼる日本の若者を凌ぐパワーを発揮する可能性がある点に期待したい。

 <21世紀の移住>

 ナンダカンダといっても平和で安全、清潔で便利な日本。海外からの移民の流入が増えても、海外への移民はないと思われているが、企業の海外進出は型を変えた集団移民と云えなくはない。

  最初の海外進出は相手国の輸入規制や税の問題。次にコスト削減による国際競争力の強化等であったが、現在は少子高齢化による国内マーケットの減少、資源確保、二酸化炭素排出規制等、海外進出理由も多様化して来ている、 企業の海外進出の場合は、山登りの手法のひとつ極地法(ポーラー法)と同じ手法をとっており、後方支援によってリスクを極力排除しているが、そういう意味では移民は自己責任でリスクを負う単独行の山登りと同じである。

 それゆえ、企業移住はリスク排除を重視するあまり、同じアジアモンスーン地帯の近隣諸国(アジア)へ集団で進出することが多い。生物学的には生物が分布を広げる場合、まず周辺部に分布を広げるのが常道であるが、昨今の中国への大量 進出は戦前の大陸進出政策に似ていなくもない。

 2000年前、ホモ・サピエンスは1億人であったが、現在は64億人である。それゆえダーウィニズムによる進歩、発展は希望的観測に過ぎなくなって来ている。その理由は地球上にホモ・サピエンスのニッチェが無くなりつつあることである。

 アジアへの集中進出は戦術的には正しくても、生物学的にはヒトが国外を目指す場合、まず近隣周辺部に分布を広げるというセオリーと同じである。 そういう味では文化文明により地域にシフトしてきたヒトの大きな特徴を生かして、一気に最も遠くに移動した南米移民の歴史に学ぶべきことが多々あるように思われるが、我田引水であろうか? どうも将来を見据えた戦略が欠けているように思えてならない?

  移民とは、生物学的に見ると、種(日本民族)としての分布を広げる過程で悲運多数死(グィールドによる)を経る多くの生物種と何ら変わることはない行為である。

  ベンチャー企業の成功の確率は1500分の1で、移民の成功の確率は1000分の1である。但し、移民の場合は、成功か、失敗かの二者択一ではなく、成功と云えないまでも何とか生活出来るという中間形態が多い。 生物学的な適応という観点に立つと成功であるが、初志(希望)を貫けたかという評価に立つと「悲運多数死」と云わざるをえない。 

参考> コロンブス以降、中南米からヨーロパ大陸にヒトによって運び込まれたジャガイモ、トウモロコシ、トマト等は現在世界人類の主用食料になっているが、最初は観賞用植物として栽培され、食料としては、たかだか200余年の歴史しかない。

 世界最大の生産量を誇るブラジルのコーヒーはエチオピア原産であり、オランダ、フランス、仏領ギアナを経てブラジルに入ってきた。

 現在、世界の主用農産物になった大豆は第二次世界大戦後の1950年代に世界中で栽培されるようになったが、それ以前は東アジアの一画で栽培されていたにすぎない。それゆえ大豆は英語でsoy beans(醤油豆)と呼ばれている。

    

来る6月18日はブラジル日本人移民100周年である。そして来年はアマゾン日本人移民80周年である。一応、移民として在マナウス33年。けだし、本来の移民の道を歩まず、日々、アマゾンのムシと戯れて来た男のムシ屋による「ムシ屋の移民論」を述べて見たい。

(つづく)

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